木の分岐構造は自然界に広く存在するパターンであり、人間はその木というオブジェクトを抽象化し枝の分岐構造を見出した。木の物理的な形状を「根・幹・枝・葉」といった階層に分解し、それを情報構造の「ルート・ノード・エッジ・リーフ」に分解した。この単純化により、人間は複雑な情報を視覚的に整理することができた。フォルダ構造、マインドマップ、データ構造(二分木、B木など)などに応用されてきた。もちろんこの木が持つ分岐的な情報構造にはいいことばかりではなく限界がある。例えば、分岐構造には線形でない関係や複雑な相互参照を表現するのが苦手であるという課題がある。そのため、グラフ構造(ノード(点)とエッジ(線)で構成されるネットワーク構造)やハイパーリンク(任意のノード間で相互参照が可能な仕組みであり、直線的な階層構造を超えた柔軟性を持つ)など他のモデルが登場した。では、グラフ構造的な木やハイパーリンク的な木は存在するのかという問いが生まれる。グラフ構造的な木で言うと、菌根ネットワーク(ウッドワイドウェブ)が該当する。 樹木の根と菌類が共生することで、地下に広大なネットワークが形成される。このネットワークでは、複数の木が「ノード」となり、菌類の菌糸が「エッジ」として機能する。このグラフ構造が栄養素や情報(ストレス信号)を複数の木々の間で共有を可能にしている。ハイパーリンクで言うと、木そのものではないが、木が他の生物と作るエコシステムの相互作用は、ハイパーリンクのような性質を持っている。例えば、果実を食べた動物が種を遠くへ運ぶことで、木が自分の影響圏外に「リンク」を張る現象が該当する。これにより物理的な接触ではなく、生態系を介して間接的なつながりを形成することができる。また、木々が風や昆虫を媒介にして花粉を送る仕組みは、リンクのないノード間を「飛び越えて」つなげる点でハイパーリンク的である。
このように木を観察すると木が思考しているのではないかと思えてくる。人間的な「考える」という行為を木に投影してしまっているのは重々に承知しているのだが木に思考性を感じてならない。少しこの直感を脇に置いて改めて木を眺めてみると、「木もまた独自の方法で情報を処理し構造を形成している」と捉えることができる。
木は環境条件(光、水、土壌など)に応じて成長し、効率的にリソース(栄養、光合成)を分配するための分岐構造を形成する。根が水源を求めて伸びる動きや、枝が光を求めて配置を調整する仕組みは、最適解を見つけるための「計算」とも言える。この計算は思考により生み出されたものか。これは思考の定義による。もし思考を「情報の処理と応答の生成」と定義するなら、木もそれを行っていると言える。ただし木は中枢神経を持たないため人間のような意思決定をしているわけではない。あくまで応答にとどまる。その応答性に私は思考性を感じていたのだ。応答的な計算であるとはいえ、人間が木の構造を模倣しそれを思考整理に役立てている事実を鑑みると、木の形自体が一種の「思考のモデル」であると言える。木が自らを思考を持つ知的存在と認識しているとは考えにくいが、木の存在そのものが自然界の知性や秩序を表現している。木は「思考する存在」として捉えることもできれば、逆に「思考を引き出す存在」としての役割を持っているとも言えるのではないか。知能の解釈を広げる上で木は一つの指針を示してくれる。半導体だけが計算するわけではない。「#26 「木製のMacBook」という思考実験」で触れたように木も植物生理学的に物理化学的にモゾモゾと計算を実行している。