「#33 感覚とリンクする言語の可能性」で記号と意味について触れた。
大事な点を見落としていることに気づいた。「意味」とは、単なる記号そのものに内在するのではなく、人間がそれに関連づける概念や解釈に基づいて生まれるものだ。意味はそれ単体では存在し得ない。解釈する対象があって初めて立ち上がる現象である。解釈を組み込むと、記号から意味へのフローは
となる。解釈前の感情は身体的な感情で、解釈後の感情は観念的な感情である。これに記号以前のフローを追加すると、 となる。
「#36 記号接地問題と漢字の世界観」では、白川静に習い、字形からイメージを想起して意味に至るフローを模索してみた。
「#41 歌の身体性」では、歌に伴う身体的な付加情報が意味の深化に繋がることを考察した。
解釈という処理に必要なのは、「余白」である。自分の知識ネットワークに組み込むために咀嚼し、照合し、統合する必要があり、それには時間を要する。余白をデザインすることの重要性をデザイナーの中垣さんは以下のように述べている。
『現代の国語』をはじめとした教科書をデザインするとき,私は常にその文章が呼吸し,生きているようなイメージを大切に作業するよう心がけています. 教科書は言語(ことば)を中心に構成されています.その言語を読み手に明確に伝えるためには,文体のリズムに合わせて一行の適切な長さや書体,文字の大きさなどを決めていく必要があります.一行が極端に長すぎたり短すぎたりしては,読み手が非常に息苦しく感じてしまいます. 俳句や短歌において,その文字数が決められているのは,読み手がひとつひとつのことばを,息を吸い・吐き・詠みあげる,その呼吸のリズムが周到に計算された結果であると考えています.こうして,読みやすい文字詰めを考えると同時に,行間にも気持ちのよいアキを作ることによって,静止した本文が語りだし,読み手の視線の自然な流れを促します.さらにイラストや写真などの図版もイメージを豊かに広げていく要素として大事なものですので,それらも吟味した上で配置していきます. 「学びとデザイン」より
ここまで、記号から意味への流れをいろいろな側面から考えてみた。記号接地問題はコンピュータを対象にしたものであるから余白という考えは必要ないと思うかもしれない。しかし、人間はこの余白の間に情報を分節化し意味のネットワークを再構成している。あるいは、これ以上の処理を行なっている可能性もある。その余地を残しておくことでしか得られない仮説推論アルゴリズムの開発に活かせるかもしれない。